幕末から明治にかけては、歌舞伎そのものの高尚志向を反映し、能や狂言の歌舞伎化(「本行物」「能取り物」「松羽目物」ともいう)が盛んになる。能は、江戸時代にあっては武士階級のものであり、庶民の娯楽であった歌舞伎とは区別されていた。町人は能を見る機会がごく限られており、能に対する世間の認識は「格式高く、いかめしいもの」と凝り固まっていたという。その格式高いところを逆手にとって、歌舞伎舞踊の格調をイメージアップさせたところにこの時代の大きな意味がある。そういった意味では、天保11年(1840)に作曲された4世杵屋六三郎の『勧進帳』は、約20年先駆けて作曲された異色の作品だったということがわかる。
能を歌舞伎化するに当たり、その荘重な雰囲気を醸し出す最適の手法が大薩摩の利用であった。
明治元年(1868)には11世杵屋六左衛門(のちの3世勘五郎)が大薩摩の家元権を正式に譲渡され、大薩摩節は完全に長唄に吸収された。以後、その旋律を駆使した「大薩摩物」といわれる名曲が多数誕生する。11世六左衛門は大薩摩に特徴的な曲節を研究整理し、「大薩摩四十八手」を制定したことでも名高い。彼を含めた「作曲の三傑」と言われる名作曲家がこの時期に揃って台頭している。綺羅星のごときその作品をまとめてみよう。
11世杵屋六左衛門(3世杵屋勘五郎)
大望月・紀州道成寺・三曲松竹梅・四季の花里・四季の山姥・綱館・橋弁慶・宮比御神楽
2世杵屋勝三郎
安達ヶ原・菖蒲浴衣(共作)・靱猿・喜三の庭(共作)・鞍馬山・廓丹前・五色の糸・時雨西行・忍車・軒端の松・春の調・風流船揃・船弁慶・都鳥・連獅子
3世杵屋正次郎
菖蒲浴衣(共作)・茨木・梅の栄・鏡獅子・岸の柳・君が代松竹梅・喜三の庭(共作)・漁樵問答・元禄花見踊・素襖落・筑摩川・土蜘・八犬伝・船弁慶・松の翁・紅葉狩・連獅子
4世吉住小三郎(のちの慈恭)・4世杵屋六四郎(のちの稀音家浄観)によって明治35年(1902)に発足された長唄研精会は、純粋な鑑賞音楽としての長唄の地位を高めること・長唄の一般家庭への普及を目的とし、様々な歌舞伎舞踊の制約から長唄を開放した大変意義のあるものだった。作詞者に小説家や学者を迎え、内容もさらに文学的で豊かなものになった。この時期を彩った研精会の作品に『有喜大尽』『お七吉三』『神田祭』『紀文大尽』『新曲胡蝶』『鳥羽の恋塚』『熊野』などがある。
長唄研精会にも多くの詞を提供した坪内逍遥は、日本舞踊を世界的(西欧的)な視野から見直すべきことを強調し、「新楽劇論」を発表する。さらに明治37年(1905)には、モデル作品としての『新曲浦島』を着想する。現在、長唄として残るのはその序曲にあたる部分で、本来の構想はさらに長大な内容を持ったものだった。作曲者5世杵屋勘五郎の作品には、『五條橋』『賤の苧環』『島の千歳』『多摩川』『楠公』『春秋』といった名曲が並ぶ。