『傾城』『浦島』『供奴』(正本)
『吾妻八景』(正本)
文化・文政期(1804-29)は江戸文化の爛熟期でもあった。長唄も同じ時期にめまぐるしい発展を遂げる。「長唄中興の祖」と言われる10世杵屋六左衛門と4世杵屋六三郎の手により多くの名曲が作られた。
豊後系浄瑠璃(常磐津・富本・清元)との掛合(交互演奏)とともに変化舞踊が大流行することで、内容はさらに多様化し、音楽的にも完成の度を高め、長唄は爛熟期を迎える。
1人の演者が次々に扮装を変えて異なる役柄・世界を見せる早替わりの流行で、比較的短い曲が多く作られた。雪月花・三人形の三変化、四季に見立てた四変化からだんだんと増えていき、最終的には十二変化にまで及び、役柄も老若男女・異類・神仏などあらゆるものを演じるようになった。『越後獅子』『汐汲』『傾城』『晒女(おかね)』『浅妻船』『まかしょ(寒行雪の姿見)』『藤娘』『供奴』『浦島』など、現在歌舞伎舞踊のスタンダードとされているものも、もとはこのときに数多く作られた「変化物」の中の一作品である。前後の曲の組み合わせに内容と形式の変化を狙ったものが多いので、一種唐突な印象を与えるものが多い(『越後獅子』『供奴』『まかしょ』などはその好例)。3世坂東三津五郎と3世中村歌右衛門の2人の伯仲した技量の競い合いが「変化物」の流行に拍車をかけたとも言われている。
この時期、さらに特筆すべき事柄が2つある。
1つは、歌舞伎舞踊から離れた純鑑賞曲(素演奏曲)としての長唄(いわゆる「お座敷長唄」)が作られはじめたことである。『老松』『吾妻八景』『秋の色種』『鶴亀』がその代表的なものとしてあげられよう。大名や旗本・富豪・文人たちに長唄の愛好者が増え、邸宅や料亭に演奏家を招いて鑑賞することが流行したのである。
もう1つは、大薩摩が長唄にほぼ吸収されたことである。長唄に最も大きな影響を与えた「大薩摩節(おおざつまぶし)」はもと江戸浄瑠璃の一派で享保頃に活躍した初代大薩摩主膳太夫を始祖とする。市川家の荒事の伴奏をつとめたため、曲想は力強く豪快であった(『矢の根』はその代表作)。大薩摩節が、荒事の衰退や三味線方不在などの諸問題で体制を維持できなくなった文政9年(1826)、家元の権利が10世杵屋六左衛門(三郎助時代)に預けられ、音楽そのものも長唄に取り込まれることとなった(『五郎』などはその好例である)。 また、同じく江戸浄瑠璃の一派であった「外記節(げきぶし)」を復興させようと試みる運動も起こり、モデル作品として作曲された三部作が『傀儡師』『石橋』『外記猿』である。
【その他の代表曲】
操三番叟・田舎巫女・犬神・翁千歳三番叟・小鍛冶・大原女・女伊達・角兵衛・官女・猿舞・賤機帯・舌出し三番叟・正札附・助六・巽八景・月の巻・鳶奴・俄獅子・浜松風・瓢箪鯰・舞扇