内弟子~現在

栄富先生は、「プロになると決めたら、私のところにいてはいけない。然るべき男性のお師匠さんのところでみっちり修業なさい」と。私はそれならばということで「芳村伊十七」の名前をあげたのである。

 

高校生のときにNHKを見ていて衝撃を受けた三味線の音色、その後、紀尾井ホールの杮落とし公演の『廓丹前』や『紀州道成寺』など、生の演奏にも幾度となく足を運び、弟子入りするならあの先生と、4年間、心の中に秘めていた。栄富先生も「貴方がそう言うなら」ということで、無理を言ってご紹介いただく運びとなった。

 

平成10年8月22日、国立劇場では猿若流の舞踊会が催されており、そこで大和楽として出演されていた伊十七師の楽屋を栄富先生とともに訪ねた。初めて体験する楽屋の雰囲気、緊張していたことしか覚えていない。そこで栄富先生は「よろしくお願いします」とだけ言い残し、自分を置いて帰っていった。言いようも無い淋しさと不安が襲ってきたが、そんなことを言ってはおられず、この瞬間、自分は厳しいプロの世界に身を投じたのだという思いを新たにした。

 

この日、国立劇場から柿の木坂の師匠宅までお供をして、正式に内弟子となったのである。

名取式にて

名取式にて
(左:伊四郎師 右:伊十七師)

それまで曲を暗譜するということをしてこなかった私は、ここからの数ヶ月、相当に辛い思いをせねばならなかった。まだ大学に在学中であり、卒業するためには卒業論文の提出が義務づけられていた。この卒論に取り組みながら、舞台で即戦力となるために必要な『鏡獅子』『連獅子』『娘道成寺』『藤娘』『鷺娘』といった曲を同時に覚えなければならなかったのである。

 

寝る間を惜しんでの自主練習の日々が続き、ただでさえ多忙な師匠に、毎日のように稽古をつけていただいた。師匠には足を向けて寝ることができない。

 

そんな努力の甲斐もあってか、翌年2月には「芳村伊十冶郎」の芸名をお許しいただき、大学を卒業した翌月には、花柳流寿会の舞台に立たせていただくこととなった。

あれから早10年以上の月日が流れた。夢中で走った本当にあっという間の10年だった。

 

師匠をはじめ、多くの諸先輩方にもたくさんご迷惑をかけ、助けられ、あたたかいご指導を受けて、いまの自分がある。とはいえ、まだ未熟もいいところで、舞台に乗っていても不甲斐ない自分が嫌になること日常茶飯事である。
そんなときには、今まで自分を支えてくれた多くの人々や、応援してくれているお弟子さん方の顔を思い浮かべ、次のステップに進めるよう反省して奮起する、その繰り返しの毎日である。

 

そんな私の座右の銘は「初一念」である。真山青果の新歌舞伎『元禄忠臣蔵』に登場する言葉で、「ふと何かを始めようと思ったときには、善悪の分別などなく、損得を考えるようになるのは、いろいろな雑事に思いを巡らせ、初発の一念を忘れるからである」といった意味合いの言葉である。確かに、最初に三味線を始めたとき、余分な考えや諸々の欲などとは無縁の心境でいたはずである。

 

ただただ夢中になって三味線を弾いていたあの日の「初一念」を忘れることなく、これからも芸道に精進していきたい。

 

(『長唄と私』平成22年記)

平成25年、師匠を喪ったことは、その後の人生を方向づける大きな節目となりました。

 

こちらにそのときの思いを綴っています・・・