人生の分岐点

大学4年の夏、国語の教員を目指していた私は、教育実習も終え、教員採用試験の準備に取り掛かろうとしていた。そんなある日、栄富先生から「三味線のプロを目指してみる気はないか?」という話があった。思いも寄らぬ話であったので、「考えさせてほしい」という返事をした。人生の岐路に立たされたのである。
三味線は大好きであったがそれを一生の仕事にするとなると、これからの苦労は目に見えている。ともかくスタートから出遅れているのである。この迷いを救ってくれたのが、高校生のときに自分自身の中で到達した「答え」であった。「ウィーン生まれの人間がウィーンの音楽を演奏する」それと同じことを自分はできるチャンスなのではないか?「日本人として生まれた自分が日本音楽の継承者になる」という前向きな考えに転換してくれたのはその「答え」があったからである。

そして、最後まで決断できぬ私を後押ししてくれたのが、卒論のための資料集めをしていた最中にたまたま見つけた折口信夫の文章「長唄のために」であった。

「長唄のために」(昭和24年11月「慶應義塾長唄研究会プログラム」より)

「長唄のために」(昭和24年11月「慶應義塾長唄研究会プログラム」より

私どもの様に大阪の町の中に育った者にとっては、江戸長唄は生れだちから縁が少かった。上方では、旧幕時代から引き続いて、明治の中頃に到るまで、関東から来た芸謡は、すべて、長唄であろうと、清元であろうと、一中であろうと、新内であろうと、皆ひっくるめて、ただ江戸唄と言った。そしてどれも同じ様な歌いぶりで歌っていた。

だからその後、明治30年代になって、上京して初めてこちらで時折、長唄や清元を聞いた訳だが、長唄にしても、清元にしても、これが所謂上方の江戸唄の系統のものかと驚いた程に、大阪で聞いた江戸唄の印象とは違っていた。

おそらく、大阪ではじめて長唄を芝居へ入れたのは、齋入市川右團次(大正5年没70歳)であったのだから、それ程大阪の町には、江戸唄は縁がなかったのである。思えば不思議な事実である。

所で、長唄について、既にこれだけ改良せられて来たのであるから、私には、もはや改良せられる余地はないと思うが、しかしどうしても長唄が濃厚に持っている所の理想は、実は長唄そのものとは関係はないと思われる。

つまり私の言うのは、今の長唄は、倫理的な心構えと言ったものを持っている、と言うことを言って居るのだ。その為に長唄は、ますます澄んでは来るが、それが同時に長唄を寂しくして行って居ると言うことが言える。

しかし幸いに長唄は、常磐津の如くには、まだ衰えて居ない。だから将来の為には、今ここで、もう少し豊かな人生を取り入れることが必要だと思う。豊かな人生を取り入れると言うと、すぐ劇場音楽としての形に専心することを勧める様に聞えそうだが、そうではない。反対に、長唄はもっと劇場から離れて、長唄独自の発達をはかるのが本道だと思う。

大学の学生が集って長唄の研究会を催したりすることが、何か似合しくない感じをおこさせるのは、実は、長唄の持つ劇場趣味がそうさせるのである。だから今ここで、長唄の為に、長唄を学問的基礎の上に立ててくれる人が出て来る必要があると思う。

何か自分に強みがあれば、どんな世界でも生きていける。

そんな思いにさせてくれたのがこの文章であった。演奏家として「長唄を学問的基礎の上に立てる」というのは、今もって自分の根底に流れているポリシーでもある。

ともあれ、自分はこうして長唄三味線の本格的な修業に身をやつすことになる。