長唄との出会い

大学進学も決まった冬休み、すでに吹奏楽部を引退していた私は楽器を演奏する機会を一瞬にして奪われてしまったような虚しい日々を過ごしていた。

そんなある日、何とはなしに見ていたNHK教育テレビで「長唄鑑賞入門」という番組が始まった。そのときは邦楽についての知識も皆無で、興味半分でそのままテレビをつけていた。冒頭の解説で「今日は三味線の面白さについてみていこうと思います」、長唄が三味線を伴う音楽であることもこのときに初めて知った。まもなく、自分にとって青天の霹靂ともいえる衝撃の瞬間が訪れる。

『吉原雀』の冒頭、「ドーン、テーン、ドンテンドンツン、ツツツツツツツ…」この三味線の音色に一瞬にして引き込まれてしまったのである。このとき去来した様々な思い、一言では説明できないのであるが、いま思えば、「日本の三味線の音に日本人の自分の魂が反応した」ということに過ぎないのであろう。妙に心地よくて、繊細で品がよく、ともかく美しかった。やがて唄がはいってくる、「凡そ生けるを放つこと」艶やかな声、語感のやわらかさ・・・それからの30分、テレビに釘付けになった。

このとき、『吉原雀』を演奏していたのが、今藤長之・芳村伊十七のコンビだった。もちろんこのときは、伊十七師がまさか自分の師匠になるなどとはゆめゆめ思っていなかった。こうして、今後の人生を共にする長唄との運命的な出会いを果たしたのである。

杵屋栄富師

杵屋栄富師

杵屋栄美彦師

杵屋栄美彦師

この日を境に、三味線との蜜月の日々が始まる。

妹が花柳流の日本舞踊を習っていたこともあり、妹のお師匠さんに長唄の先生を紹介していただいた。それもNHKの放送から数日後のことである。

文京区向丘にお住まいの杵屋栄富先生は、初対面からとても気さくな雰囲気の先生だった。明るくて華があって、しかし根底には一本筋の通った厳しさがあり、いま思えば、この先生に手ほどきをしていただいたことで三味線を続けられたといってもよいかもしれない。

杵屋栄富(1922-)先生は、堀留派の唄方で、日本邦楽学校(1932年設立)で3世杵屋栄蔵の教えを受けた人である。早世した夫君は三味線方の杵屋栄美彦(1916-1961)といい、同じく栄蔵門下であった。6世杵屋正次郎(当時、杵屋栄慎次)の師にあたる人である。

最初、ご挨拶だけで失礼するのだと思っていたその日、すぐにお稽古が始まった。記念すべき最初のお稽古はなんと『筑摩川』の大薩摩であった。先生は恐らく三味線の面白さを伝えたくて、三味線を持ったばかりの自分に大薩摩を弾かせたのだと思う。最初はついていくのに必死であったが、しばらくすると夢中になって弾いていた。確か時間にして2時間近く経っていたと記憶している。

その日に稽古三味線をお借りして家に帰り、家族が呆れ返るのをよそにただただ三味線と向かい合っていた。

日本大学文理学部の国文学科に籍をおいていた私は、三味線一色の生活を送っていた。

授業以外の時間の使い方といえば、三味線をさわっているか、歌舞伎を観にいっているかといった具合である。長唄の不滅の金字塔である「7代目芳村伊十郎長唄大全集」(CD30枚組、10万円!)が欲しくて、せっせとアルバイトにも精を出した。

栄富先生の稽古は、週に2回くらいのペースで進んでいったような気がする。「とにかくたくさん曲をやりましょう」ということから、まず堀留派の「栄二譜」(※覚え書「楽譜についての一考察」参照)の読み方を習い、栄美彦先生の遺した自筆譜を片っ端から稽古するという有様だった。1曲を2回の稽古であげていくというペースも今となっては考えられないが、三味線を始めるスタートが遅かった私を育てようという思いが伝わってきたので、自分も必死に食らいついていった。

この大学4年間があったからこそ、現在の師匠のところでもなんとかついていくことができたのだと栄富先生には感謝の思いでいっぱいである。