「勧進帳」は、あらゆる意味で歌舞伎作品の最高峰といえるのではなかろうか。日本人の情に訴えかけるストーリーの分かりやすさ・凝縮された歌舞伎のエッセンス・歌舞伎十八番中でも唯一の松羽目物という格式・上演時間のほどよさ・長唄の歴史でも第1の名曲にあげられる曲の素晴らしさ…など理由はいくらでもあげることができる。自分にとっても、「勧進帳」は三味線を始める1つのきっかけとなった思い出深い作品である。幕が上がって、まず長唄囃子連中の居並んだ様子に圧倒される。荘重な富樫の名乗りのあと、謡いガカリの「旅の衣は~」、満を持して弾き始めるタテ三味線「時しも頃は~」、そして「寄せの合方」がユニゾンで演奏されると、歌舞伎座全体が、長唄三味線特有の軽快な清々しさ・心浮き立つような期待感で満たされるのである。あのような芝居は他にはない。自分にとっても空前絶後である。
現在盛んに上演される「勧進帳」の初演は、天保11年(1840)3月の江戸河原崎座で行われた。作者は3世並木五瓶、長唄の作曲は4世杵屋六三郎(後の六翁)、振付は4世西川扇蔵である。弁慶を市川海老蔵(7世團十郎)・富樫を市川九蔵(後の6世團蔵)・義経を8世市川團十郎が演じた。いわゆる「歌舞伎十八番」としての「勧進帳」の誕生である。それをさらに、今日のような形の演出に磨き上げたのが、「明治の劇聖」といわれた9世市川團十郎であるので、「勧進帳」も初演時と比較するとだいぶ改変が加えられていることが想像できる。さらに初演以前にも「勧進帳」の先行的な意義を持った作品は存在する。まずは、「勧進帳」の歴史を遡り、現在の「勧進帳」のイメージを拭い去ることから始めねばなるまい。
「勧進帳」の筋は改めてここで触れるまでもないだろうが、このあとにとりあげるもう1つの「勧進帳」と比較するためにも、掲載しておきたいと思う。以下は、歌舞伎座の会報「ほうおう」よりの抜粋である。
兄頼朝に追われて奥州へ落ちのびようとする源義経主従は、弁慶を先達とする山伏の一行に姿を変え、頼朝の命により設けられた安宅の新関へさしかかる。関守は富樫左衛門。問われて弁慶は東大寺再建のための勧進を行っていると答え、架空の勧進帳を読みあげる。修験道に関する難問にも見事に答え、一行は通行を許可されるが、最後を歩く強力姿の義経が判官の絵姿に似ていると見とがめられる。弁慶は心を鬼にして主君義経を金剛杖で打つ。その苦衷にうたれた富樫は通行を許し、酒を振舞われた弁慶は延年の舞を披露し、出立した一行のあとを追う。
人口に膾炙した「勧進帳」ストーリーの大部分は『義経記』の巻七に拠っている。厳密には『義経記』を典拠とした、能(謡曲)の『安宅』に端を発しているといった方がよい。『安宅』は、四番目物・一場の能で、観世小次郎信光の作と伝えられているが、現在は疑われている。典拠は同じく『義経記』にある(観世左近『観世流謡曲百番集』)。その他にも「幸若舞曲の『富樫』および『笈捜』の二曲を題材にして想を構え」(『演劇百科事典』)たという。『義経記』のどの部分が典拠となっているかについては、渡辺保氏が、次のように論じている。
1つは、「三の口の関通り給ふ事」における関所の役人との問答。次に「平泉寺御見物の事」での加賀国井上左衛門との出会い。そして第3に同じ章の加賀国の大名富樫介との出会い。最後に「如意の渡にて弁慶打ち奉る事」の、弁慶の義経打擲である。(渡辺保『勧進帳―日本人論の原像』)
これに加えて、戸板康二氏は、「直江の津にて笈さがされし事」の影響も指摘している(『歌舞伎十八番』)。いずれにせよ、能の『安宅』が『義経記』をもとにして作られたことは疑いようがない。
近世になると、これら『義経記』による物語は、当然のことながら浄瑠璃・歌舞伎の題材となる。『近世邦楽年表(義太夫節の部)』で確認できる最も古い浄瑠璃は、『凱陣八島』(貞享元年?/近松門左衛門作)とされ、続く『文武五人男』(元禄8年3月/近松作?)、『フタリ静胎内サグリ』(正徳3年5月/近松門左衛門作)、『清和源氏十五段』(享保12年2月/並木宗助・安田蛙文合作)も『義経記』から発した物語の影響を受けている。また、これ以前にも、古浄瑠璃『安宅勧進帳』(土佐節)などの影響が考えられている(棚橋正博『江戸の戯作絵本(続1)』「解説」)。これらの浄瑠璃作品に共通する特徴として、「安宅の関」の場面が設定されていることがあげられよう(「安宅物」『演劇百科事典』及び、鳥居フミ子「勧進帳劇の形成」「東京女子大学日本文学」73を参照)。ここにも能の『安宅』の影は色濃い。
歌舞伎では、元禄15年(1702)2月に江戸中村座で上演された『星合十二段』がある。「初世市川団十郎が、弁慶と和泉三郎を題材に自作自演し(ペンネームを三升屋兵庫という=引用者)、6月まで続演したといわれている。歌舞伎十八番『勧進帳』のもとをなすものとして注目すべき作品」とされ、「問答半ばへ、朝比奈が現われて助力する筋。荒事の弁慶の祖をなすもの」(『演劇百科事典』)である。同年の7月には、『星合十二段』の後日狂言として、『新板高館弁慶状』(三升屋兵庫作)が上演される。「初世市川団十郎と市川九蔵の二人弁慶の趣向で大当りをとった」(『演劇百科事典』)。明和6年(1769)11月には、江戸市村座の顔見世狂言として『雪花顔見勢』が上演される。現在残っている、長唄『安宅の松』(本名題『隈取安宅松』)は、その舞踊劇の部分である。おおまかな筋は、「義経に従って陸奥国へ落ちて行く弁慶実は鞍馬山の僧正坊が、安宅の関の手前で名木安宅の松の下で落葉を掻いている里の童に都名物の扇を与えて奥州平泉へ行く近道を教えて貰う」(『長唄名曲要説』)というものである。さらに、安永2年(1773)3月の大坂中の芝居では『日本第一和布刈神事』(初世並木正三・初世奈河亀輔・寺田兵蔵合作)が上演される。序幕に「安宅の関」がみえるが、内容は『安宅』の後日談である。
ここまでの流れをみてみると、あることに気がつく。初期の浄瑠璃作品には、『義経記』を典拠とした能の『安宅』の影響がはっきりとみられるものの、それ以降、時代を経るに従い、『安宅』の影響は徐々に薄れていくのである。渥美清太郎氏は、これを「謡曲『安宅』から脱化したもの」(『演劇百科事典』)と呼んでいる。このことは言い換えれば、もとの『義経記』そのものの趣向を採った作品群といえるのではなかろうか。分かりやすく言えば、「曾我物」「景清物」と同じように、「義経物」とでもいうべき世界をもった作品群なのである。この世界は、能の中にも同様に形成されている。
源義経、またはそれと関わる人物等を主人公にした曲も能作品の一分野を占めている。それらは、<鞍馬天狗・橋弁慶・烏帽子折・熊坂>のように少年時代の牛若の登場する曲、<船弁慶・安宅・摂待>など義経一行の逃避行を扱った曲(<正尊>や<錦戸>もここに含めておく)、<吉野静・安達静・二人静>など義経と別れた後の物語を描いた曲、<忠信・鈴木・清重>など義経の郎等をシテとする曲に大別することができる。(落合博志「能・狂言出典一覧」『能・狂言必携』)
しかし、安永2年(1773)11月に江戸中村座で初演された『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』(初世桜田治助作)は、「義経物」でなく、もとの『安宅』の世界に立ち戻った作品であった。この点で、真に「勧進帳」のもととなった歌舞伎狂言とすれば、この『御摂勧進帳』をあげるべきだろう。それまでの作品は、『安宅』から離れ、『義経記』の世界に拠ることに意義を見出していたからである。『御摂勧進帳』の第一番目五建目「安宅の関の段」をみると、『安宅』の世界を描いていることが歴然としている。
義経主従は山伏に姿をやつし奥州路を落ちる途中、安宅の関にさしかかる。一行は関守斎藤次祐家およびその相役富樫左衛門に通行を止められ、弁慶は山伏の証拠として勧進帳を読み上げる。しかし斎藤次は山伏らしくない義経の優姿をあやしむので、弁慶はわざと義経を打って疑いを解く。斎藤次はなおも弁慶に縄をうったが、他の一行は情ある富樫のはからいで往来切手をもらって関を通過する。一人残った弁慶は時刻を見はからって縄を切り軍兵たちの首を引き抜いて大暴れをしたのち(「芋洗い勧進帳」の通称はここからついている=引用者)、一行のあとを追う。(『演劇百科事典』)
この68年後に、歌舞伎十八番「勧進帳」が生まれている。このとき市川海老蔵は、「これら(前にあげた「義経物」の一群=引用者)の浄瑠璃、歌舞伎の作品の系列を継承しようとはしなかった。(中略)海老蔵は、歌舞伎浄瑠璃の古態に帰ることを標榜しながら、実は能の『安宅』を直接歌舞伎化しようとしたのである」(渡辺保『勧進帳―日本人論の原像』)という。郡司正勝氏も、「あきらかに、能を意識して作られたもので、天保期の能趣味の風潮と7代目団十郎の僭上精神に乗ずるものであった」(『歌舞伎十八番集』「解説」)と述べている。ここからも、『安宅』の影響を直接うけていると思われる『御摂勧進帳』が当時としては画期的な歌舞伎狂言であったことが想像される。『東都劇場沿革資料』の記事には次のようにある。
此顔見世古今無類の大当り、四日目より見物客を断りし程にて前代未聞の大入。切落し札三四日前に売切れ、おくらかん台の脇へ「さゞえ桟敷」といふを拵へ、十日計りが間舞台の左右に見物居並び、道具建半分飾りし程にて、十二月十七日迄大入なり(『江戸歌舞伎集』)
また、「明和9年2月29日の正午、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、おりからの西南の風に煽られ、白金から神田・浅草・千住と江戸を焼きつくした」(『江戸歌舞伎集』)という。「御贔屓に向かい、海老蔵が読み上げる勧進帳は、中村座の市川揃えの御贔屓を乞い願うだけでなく、『大檀那』である江戸八百八町の御贔屓の栄えを願う復興の祈りでもあったのである」(『江戸歌舞伎集』)。さらに、『御摂勧進帳』の上演は次のような意味を持っていたのである。
海老蔵は、弁慶に扮し、大名題の「勧進帳」を演じ、幕切れでは茶目っ気たっぷりの「芋洗い」の荒事を見せる。毬栗頭の大坊主の弁慶が着る鮮やかな緋の衣は、鍾馗・為朝など子供の疱瘡除けの紅刷りの守護神が動き出す面白さがある。「いも」は疱瘡の異名で、「芋洗い」の荒事は、安永2年(1773)の春から夏、江戸中で流行し、19万人の死者を出した疫病を洗い流す呪力になる。(『江戸歌舞伎集』)
国立劇場はこの作品を、昭和43年(1968)に195年ぶりに復活上演し、大きな話題となった。以後、再演を重ね、最近では平成17年の初春歌舞伎公演(国立劇場)にて、弁慶を中村富十郎・斎藤次祐家を坂東彦三郎・富樫左衛門を中村梅玉がつとめた。
歌舞伎十八番の陰に隠れた、もう1つの「勧進帳」の存在を1人でも多くの方々に知っていただきたいと思う。