道成寺と文学・芸能

2010/03/07

花の外には松ばかり、花の外には松ばかり、暮れ初めて鐘や響くらん…

 

言うまでもなく、長唄『京鹿子娘道成寺』の唄いだしである。歌舞伎所作事の筆頭に挙げられるであろうこの作品の詞章は、能『道成寺』から採られており(一部、能『三井寺』より)アレンジが加えられている。『京鹿子娘道成寺』には典拠が存在する。しかし、その能にもさらなる典拠があり、おおよそ平安中期にまで遡ることができる。

そこで、道成寺にまつわる説話や絵巻物・芸能に注目し、なぜ現在まで道成寺伝説が語り継がれているのか、その成立過程と意義について考察してみたいと思う。また、平成8年夏、当時大学2年生だった私は夏期休暇を利用して実際に道成寺を訪れた。現地で学んだ体験を踏まえながら書き綴っていきたいと思う。なお、この文章は、大学2年の9月に日本大学文理学部国文学科《国文学特殊講義Ⅱ》(指導:辻勝美先生)のレポートとして提出したものに、補筆・訂正を加えたものであることをお断りしておく。

 

道成寺(現・和歌山県日高郡川辺町鐘巻)は寺伝に拠れば、大宝元年(701)に、文武天皇妃藤原宮子の発願によって建立されたという。紀道成が建立奉行であったため、このように命名された。紀州最古の寺である。
道成寺には2つの説話が伝えられている。
1つは、寺院開創の前史として伝わるもので、大方のあらすじは以下のようなものである。

 

当時この辺りは入江で、ある時、海中に光りものがあり、海人が海中を模索し、拾い上げると丈1寸8分の閻浮檀金でできた千手観音像であった。海人は庵を結び像を祀った。海人には成長しても頭髪の生えない娘がいたが、この像に願ったところ黒髪が生じ、美しい娘となった。後、この娘は文武天皇の妃となり観音の利益を聞いた天皇が道成寺建立の発願を勅したという。(『日本歴史地名大系31』)

 

しかし、この説話は道成寺のもう1つの説話の影に隠れてしまっている。「安珍清姫」として伝わるものがそれである。現在見られる文献の中で、最初にこの話を載せるものは、長久年間(1040-44)に撰述されたという『本朝法華験記』である。この中の「第百廿九紀伊國牟婁郡悪女」が伝えられる話とほぼ同じ内容を持っている。故にこれを「安珍清姫」説話の根源とみてよかろう。『法華験記』は漢文体で書かれており、次のような内容である。

 

熊野詣でに来た若い僧が、女に恋慕されて追われ、あわててのがれる。が、瞋恚の炎を燃やした女は大蛇と化して僧を追う。僧はこの寺の鐘の中に隠れるが、大蛇の毒によって焼き殺された。しかしながら、『法華経』の功徳により、僧は弥勒菩薩の浄土たる兜率天に、そして悪女は帝釈天の止住する刀利天に上生した。(『続日本の絵巻24』)

 

話はさらに伝播し、『今昔物語集』(1110年代頃)巻14「紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三」となって登場する。ここに至ってようやく説話らしい形を持つようになる。和文体に改められ、描写はより細かくなる。内容的にはここでほぼ完成したとみてよいだろう。
元亨2年(1322)成立の『元亨釈書』にも、巻19願雑4「霊恠」に「安珍」と見える部分があり、説話の内容は今までとほぼ同じである。登場人物が設定され、より現実味を帯びる。

こうして伝わった道成寺説話は、15世紀後半に成立した『道成寺縁起』において完成をみる。現在よく知られている物語はこの『道成寺縁起』によっている。『続日本の絵巻24』の解説によれば、「詞書は後小松院の宸筆、絵は土佐光興の筆と伝えているが、信を置くに足りない」とある。また、『道成寺縁起』の詞が、前掲の説話に拠っていることは間違いないが、中でも『本朝法華験記』を直接参照し、拠っているようである(内田賢徳氏「『道成寺縁起』絵詞の成立」)。

ともあれ、この『道成寺縁起』という絵巻物がこれまでの説話と一線を画していたことは間違いないだろう。「ほかの絵巻に比べて、画面の構図が長いのが特徴。紙を4枚も5枚も継いで、1段の画面を構成している。また、画面に登場する人物たちの会話文が書かれているのも珍しい」(『続日本の絵巻24』解説)というのだから、当時かなり注目を集めた絵巻物ではなかっただろうか。
説話の状況についても、『本朝法華験記』『今昔物語集』が登場人物名も時代も設定されておらず、『元亨釈書』が「安珍」の名のみ伝えるのに対し、『道成寺縁起』では、醍醐天皇の延長六年、男は奥州の者、女は紀伊国室の郡真砂の宿主清次庄司の娵、というように詳らかである。

こうして完成された道成寺伝説はこのあと、芸能の世界に取り込まれるようになり、「道成寺物」という1ジャンルを形成する。代表的な作品として、地歌『古道成寺』・義太夫『日高川入相花王』・新内『日高川』・組踊『執心鐘入』などがある。
ここで注意すべきは、冒頭に挙げた『京鹿子娘道成寺』の典拠となった能『道成寺』は別系統の「道成寺物」であるということだ。能『道成寺』は原説話をモデルとしたものではなく、その後日譚に基づいている。ここで能『道成寺』の梗概を引用しておきたい。

 

道成寺においては清姫の事件で無くなった鐘を400年後の正平14年に再興した。その鐘供養のとき女人禁制の庭に、白拍子(実は清姫の霊)が詣できて、舞を奉納するとて私かに許され、立舞うさまを装うて鐘に近づき、人々の隙を狙って鐘をのろい落して中に入る。そこでワキ役の道成寺住僧が、「この鐘に就いて女人禁制と申しつる謂はれの候を(中略)語つて聞かせ申し候べし…」と昔語りをして、「その時の女の執心残つて又この鐘に障礙をなすと存じ候(中略)この鐘を二度鐘楼へ上げうずるにて候」と祈念する。その甲斐あって鐘は上り、中から蛇体の本性を現わした清姫の霊が登場する。蛇体は住僧らに祈られて遂に日高川に飛び込んで消え失せる。(参考『観世流謡曲大成版』『道成寺絵とき本』)

 

能『道成寺』を原拠とする「道成寺物」は、『京鹿子娘道成寺』をはじめ、地歌/箏曲『新道成寺』『新娘道成寺』・河東節『道成寺』・長唄『傾城道成寺』『紀州道成寺』など、数が多い。

道成寺伝説が『本朝法華験記』に見えてから現在まで、950年の月日を経ている。その間、少しずつ形を変えて、今の世にも受け入れられる芸術として残ったことは実に不思議な現象である。伝説の書かれたメディアの効果なのか、道成寺の物語に時代を超越した魅力があるからなのだろうか。思いは巡るが、物語の1つの終着点となった『道成寺縁起』の存在なしには考えられないだろう。次回は、この『道成寺縁起』にもう一度立ち戻り、道成寺伝説伝播の理由、その意義について考えてみたいと思う。

『道成寺縁起』が最初に広められたのは「説法」によってであろう。絵巻を使った説法を「絵とき説法」といい、道成寺でも盛んであったらしい。とくに道成寺は、熊野詣の順路に当たったため大いに栄えた。説話の流布はその熊野詣の人々を対象に行われたためと思われる。『道成寺縁起』の第1段階の享受者は「熊野詣の人々」だったのである。このことについては内田賢徳氏の論考に詳しい。

 

逃走と追跡の場面で、僧と女以外に描かれる人物は(略)いずれも熊野詣での人々と見られる。そして、絵の所々に記される土地の名は、いずれも王子社のある場所である。(略)つまり、「縁起」は熊野詣での道中の人々にその物語を享受されることを予想して述作され、絵もまたそれに沿った内容をもっていると見られる。(略)それを媒介として、彼らはあたかも自らの道中に1つの怪異が起こったかのような気分をもたらされたであろう。(内田賢徳氏「『道成寺縁起』絵詞の成立」)

 

道成寺の絵とき説法は、現在でも行われている。私も10年ほど前の夏に体験してきたのであるが、なかなか面白い。絵ときに使われる絵巻は、『道成寺縁起』の忠実な複製である。オリジナルの重要文化財は奥にしまってあるとのこと。その絵巻を、一方は軸にはめ、一方を片手で巻き取りながら場面を変化させていく。そのときの僧侶の話し方・内容がまた面白い。ついつい聞き入ってしまうので、終わってみるといつのまにか説教までされてしまっており、なるほどと感心してしまった。説法は「安珍清姫」の物語にはじまり、最後には「妻宝極楽(妻君を一家の宝と心して…)」と説いていた。道成寺ならではの教えである。
説法の途中、絵巻について「総天然色シネマスコープ」という言葉が僧侶の口から飛び出した。これまたなるほどと思った。前に『道成寺縁起』が画期的だと述べたが、それはまさにここに集約されるのだろう。当時としてはまだ物珍しい映像手段を用いたユーモアのある説法は、多くの人々に受け入れられたに違いない。
その1つの表れが「説話の芸能化」である。説話を知る人々の中から、芸能の作り手と受け手が現れ、「道成寺物」を形作ったのだ。が、それだけではないだろう。現代まで残存している理由は、原説話を知らない人々にも受け入れられる「道成寺物」の魅力があるからである。裏を返せば、それは「道成寺物の本質」であり、「原説話(=安珍清姫の物語)の本質」である。

道成寺発行の『道成寺絵とき本』には、次のような見解が示されている。

 

・彼の勇気を称えてやる反面、自分ならば、こうするだろうという自負心をもって見るから、この物語がもろ人に愛好されるのである。
・道成寺の開創、宮子姫女人開運物語があるのに、この方はあまり世に出ないのは、めでたすぎて、他人の幸運は誰しも好んで謳歌したがらないからであり、それに引きかえてこの清姫の悲恋物語は、同情的な共感を覚えるからではないか。
・女性の妄執を、大蛇に表現せしめ、こともあろうに、寺院法器の聖なる梵鐘を使って、恋のとりこの男を焼き果す、空前絶後の情熱奇譚であるからだ。

 

一般に道成寺伝説が語られるときには、「女の執念」や「鐘への恨み」がクローズアップされる。だが本質は実はそこにはないのではないか。根本にあるのは純粋な恋愛の物語である。男女の恋愛はあらゆる文学・芸術の原動力となった、人間の普遍的なテーマである。「道成寺物」がここまで芸能の世界に定着したのもこの所以であろう。『京鹿子娘道成寺』はそういった意味で「道成寺物」の核心を見事についている。様々な娘の姿態を踊り分けるといった趣向は、「執念」「恨み」からはかけ離れた、純粋な娘(=女)の美しさの表現以外のなにものでもないからである。

絵巻にしろ芸能にしろ、道成寺のような発展のケースは他に類を見ない。私のように「芸能」の道成寺がきっかけとなって、道成寺の「説法」を聞きにいく人間がいるのである。道成寺芸術はすでに一人歩きしているといってもよいだろう。