日常、簡単に使っていながらいざ聞かれると説明できないことばは多々ある。長唄を取り巻く近世において生まれたことばも同様である。「いき(粋)」ということばを例にとってみよう。何気なく使うことばだが、実際どのような現象を「いき(粋)」というのだろうか。九鬼周造は「『いき』の構造」という論文で、「運命によって<諦め>を得た<媚態>が<意気地>の自由に生きるのが<いき>である」と結論付けている。非常に難解であるが、実際説明するとなるとこのように大変難しいのかもしれない。同様に「浮世(うきよ)」ということばは、通用しているようでなかなか説明の難しいことばである。長唄にも頻繁に登場する。今思いつくだけでも、「廓に恋すれば浮世じゃえ」(娘道成寺)、「浮世を渡る風雅者」(越後獅子)、「悟られぬこそ浮世なれ」(勧進帳)、「浮世はな車さよえ」(助六)、「しかも浮世をはなれ里」(喜撰)…などがある。果たして「浮世」とはどういったものなのだろうか。
「浮世」はもと「憂世」であった。つらい世の中を意味することばで、平安後期から中世にかけては無常観に代表される仏教的厭世思想の色合いを持つことが多かった。「浮世」はその裏返しとして出てきたものだ。つらい世の中だからこそ享楽的に生きるべき、という意味合いをもつことばである。
「浮世」は、江戸時代に様々な様相を表すことばとなった。『日本国語大辞典』の第一義には、「はかなく定めないのだから、深刻に考えないで、うきうきと享楽的にすごすべき世の中」とある。それらを原義的に説明しているのが、浅井了意による仮名草子『浮世物語』(寛文元年)である。「…当座当座にやらして、月・雪・花・紅葉にうちむかひ、歌をうたひ酒のみ、浮きに浮いてなぐさみ、手前のすり切りも苦にならず、沈みいらぬこころだての、水に流るる瓢箪のごとくなる、これを浮世と名づくるなり…」(日本古典文学全集『仮名草子集』)と、初期の「浮世」を定義づけている。
浄瑠璃に目を転じてみよう。だいぶ時代は下るが、近松半二・三好松洛ら合作による『妹背山婦女庭訓』(明和8年・竹本座初演)に注目したい。これは全五段からなる時代物であるが、男女の恋愛模様も描かれている。四段目「杉酒屋」は「近世人が夢想した江戸的な古代、江戸的な原始の風景」(中村哲郎ほか『丸本歌舞伎』)がとくに感じられる段となっている。「…これまでお前とわたしが仲逢ふことさへもたまたまに。千年も萬年も變らぬ契りと仰しゃった。その約束は偽りか浮世の訳も弁へぬ在所育ちのわたしでも。いひかはしたこと忘れはせぬ」(日本古典全書『近松半二集』)と、ここで使われる「浮世」はずばり「男女間の恋愛」の意味である。
井原西鶴の浮世草子『本朝二十不孝』(貞享3年)の巻1・第1話「今の都も世は借物」では、遊興のため親の命を担保にするという場面に「浮世」が用いられる。「…隠居の貯有に極りし分限なれ共まゝならず、俄に浮世もやめがたく、手筋聞出し、長崎屋伝九郎を頼み、死一倍のかり金千両才覚させけるに、都は広し、是に借人も有て、かり手の年の程を見に遣しける」(新日本古典文学大系『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』)。ここでの「浮世」は明らかに「遊里で遊ぶこと」を指す。
社会的な現実の生活(=当世)を表すときにも「浮世」は用いられる。井原西鶴『好色一代男』(天和2年)の巻1「けした所が恋のはじまり」から引用してみよう。「ここに但馬の国かねほる里の辺に、浮世の事を外になして、色道ふたつに寝ても覚めても夢介と替名よばれて…」(日本古典文学全集『井原西鶴集』)とある。ここでの「浮世」は「当世の世事」として書かれている。
これらの他にも、「浮世」は至るところに登場する。当代流行の絵を「浮世絵」といったり、「憂世」と同じ意味で用いられることもあった。ともあれ、これだけ多くの「浮世」に満ちた江戸時代はまさに「浮世」だったのだろう。世間の人々は少なからず浮世であることを感じていたに違いない。
その「浮世」を冠して生まれたのが「浮世草子」と呼ばれる小説ジャンルである。「浮世草子」は「啓蒙・教訓・実用といった目的を切り捨てて娯楽性に徹し、当世の風俗・人情の諸相を描きあげる現代風俗小説ともいうべきもの」(谷脇理史「浮世草子」『近世文学研究事典』)と説明される。基本的には「浮世」の原義に沿っているが、これではあまりに幅が広い。実際、「浮世草子」は作品の素材・目的・方法などにより、さらに細分化することができる。「浮世」を追究する過程で避けては通れないだろう。以下、長谷川強氏による時期区分と解説(日本古典文学全集『浮世草子集』解説)を参考に、「浮世草子」の変遷をたどってみたい。
「浮世草子」は、井原西鶴『好色一代男』(前掲)をもってその嚆矢とする。以後約100年間が「浮世草子」の時代である。
<第1期(天和3年~元禄12年)>
『好色一代男』は「古典卑俗化の面白さを作者と同レベルで味わうことのできる読者から、単に好色の諸相を描いた風俗小説として楽しむ読者まで、幅広い支持者を集めてベストセラーとなった」(谷脇理史「好色一代男」『近世文学研究事典』)と考えられる。第1期「浮世草子」の「浮世」は「男女間の恋愛」(『妹背山婦女庭訓』前回参照)や「遊里で遊ぶこと」(『本朝二十不孝』前回参照)といった性質をもっていた。これは一語で置き換えれば「好色」ということである。西鶴没後は追随作者・作品が多く現れ、「好色物」は一大ブームを巻き起こすのだが、マンネリズムに陥ることで、「好色物」としての「浮世草子」は下火となっていく。
<第2期(元禄13年~宝永末年)>
西沢一風『風流御前義経記』(元禄13年)は、浮世草子に新風を吹き込んだ。これは『義経記』を当世化したもので、作品には当時流行の芸能(浄瑠璃や歌舞伎)を随所に利用した。古典色・演劇色の導入が人気を博した理由だろう。
また、同時期に書かれた江島其蹟『けいせい色三味線』(元禄14年)は、遊里の風俗・客と女郎の交渉を描く「好色物」であるが、役者評判記の体裁で書かれた「女郎名寄」を付すことにより、精工さ・新奇さを感じさせる。本文に現実感を与える効果である。
この期に「浮世草子」の「浮世」は当世味を帯びるようになる。第1期の「好色」を内容に含みながらも、当代の芸能・風俗を積極的にとり入れることにより新味を出すことに成功した。ここにおいて「浮世」は二面性を獲得したのである。
<第3期(正徳元年~享保末年)>
赤穂浪士の事件が浄瑠璃・歌舞伎に取り入れられるようになったのをきっかけに、「浮世草子」も質的に大きな変化を遂げる。「時代物」的性格を持つようになり、大幅な長編化を余儀なくされる。時事への世人の関心を演劇の人気作に転じたとも考えられ、「浮世草子」の「浮世」は「当世」が主となる(この時期に「好色」は影に隠れるようになる)。しかし、この頃から「浮世草子」という名称自体ほとんど用いられることがなくなり、代わりに「読本」「風流読本」と呼ばれることが多くなった。
<第4期(元文元年~明和3年)>
多田南嶺・八文字瑞笑などが代表作家として活躍する。浄瑠璃界では、豊竹座・竹本座が相次いで閉鎖し、時代物は次第に受け入れられなくなる。南嶺の気質物に『鎌倉諸芸袖日記』(寛保3年)があるため、「浮世」は「当世」の意味を辛うじて存続しているといえよう。なお、「浮世草子」は明治以降の文学史において、読本をも含めた呼称であるが、浮世草子の流れを汲んでいるために、ここでは同様に扱うこととする。
<第5期(明和4年~天明3年)>
「浮世草子」衰退の兆候が見え始めると、井原西鶴や江島其蹟が省みられるようになり、気質物が多く書かれる。和訳太郎(上田秋成)による『諸道聴耳世間猿』(明和3年)・『世間妾形気』(明和4年)は、人情の機微に迫る秀作といわれる。他に永井堂亀友・大雅舎其鳳なども筆を揮い、「浮世草子」の「浮世」はここに至り、純粋な「当世」の意義を取り戻すことになるのである。
以上、「浮世草子」の歴史と併せて「浮世」の変遷を追った。「浮世」の意義は時期に応じて変化し、一言で説明することが困難である。ただ1つ、どの時期にも共通するのは「享楽的に生きるべき世の中」を背景にもっていることである。それぞれの時点で好評を博した「浮世草子」からも容易に想像できるように、「浮世」とは、民間の様々な人間によって受け継がれ、洗練された、極めて地域的な人生観・社会観なのである。長唄の詞章から「浮世」の語句を収集し、年代別に整理してみるとより興味深い結果が得られるかもしれないが、また別の機会に譲っておきたい。